かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

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今日は吉田松陰の命日です。
1859年、江戸・伝馬町の牢で斬首されてから151年。
佐久間象山に師事し、密航を何度か企てるも失敗に終わり、山口県萩市で幽閉されるも、松下村塾を開塾。
塾生には明治維新前後に日本を動かす面々が揃っていました。

“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”
松蔭の辞世の句ですが、これを記した碑が現在の地下鉄日比谷線、小伝馬町駅の4番出口から出て裏にまわった所、十思公園内にあります。
そここそが斬首の場所で、今日あたりは花や線香が供えられているかも知れません。 

松蔭は自著「幽囚録」の中で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記しています。
これは「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。 また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を裂き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」ということです。
日本は神国、天皇を中心にした神の国であるという戦前教育。これの発端は、どうもここら辺にありそうです。
この教えを受けた松下村塾の塾生が明治政府の要職に就き、その後の国政に大きな影響を与えたことは否めません。

ただ松蔭は命がけの海外渡航を繰り返しました。
それほどまでに外国を見たかった理由は何だったのでしょう。

日本は明治新政府になり、人心一新で新時代に向かっていきます。
しかし、舵取りとなる政府の役人たちの思想は「幽囚録」そのものであり、日清・日露戦争、韓国併合、満州事変、太平洋戦争へと突き進んでいくのです。
新しい時代になり、新しい制度や新しい物が普通に流通するようになっても、政府の舵取りは江戸時代後期の人、まだ世界地理や民主主義や社会主義のなんたるかも知らない私塾の先生の教えのままだったわけです。

実は松蔭自身、自分がそれらのことに無知であることを知っていたのではないでしょうか。 
だからこそ、自分の目でそれらを見て学ぶために命がけの海外渡航を企てたのではないでしょうか。

戦前の修身(道徳)の教科書には、松蔭は天皇中心の正当性や忠君愛国の根拠をもたらした人物とされています。
論理のすりかえや誤用などもあるでしょうが、倒幕に全力を傾けて、いざ新政府樹立となった途端に気合が抜けてしまったように見える明治維新。
西欧列強が植民地支配の手をアジア周辺に伸ばしてきていた時勢を考えれば、富国強兵は当たり前の発想ではありますが、 日本人の精神は「武士道」という言葉で言い換えられた「精神的鎖国」のままだったのではないかとも思えます。

江戸後期、アメリカとの余りにも不平等や通商条約を結んでしまった幕府は、日本がその後迎える時代に不都合な存在だったことは明白です。
その時代に抱く殉国の思いと、戦時下に教育された殉国の考えには隔たりがあります。あまりにも時代が違いすぎるのです。
まったく上手く利用されてしまった、としか考えられません。

当時は日本という国を俯瞰できる人は一握りでした。
そういう意味では松蔭は稀有な存在だったことは事実だと思います。
151年後の今日、松蔭はどんな思いで日本を見るのでしょうね。