砂上の楼閣

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今年最後の1本。
ペンタコン、フレクトゴンで。

まぁ3月からこっち、今年は大変な年だった。
テレビなんかで言ってる事だけじゃなく、これはもう各論的な大変さであるはずなので、一括りにしてお題目を唱えて「がんばろう」なんていうのは申し訳なくて言えない、というのが僕の本当である。

幸いにも僕が暮らしている地方には大した影響がなかった。
でも何年も前から東海・東南海地震での危険性が指摘されている地域であるし、それは明日、否今起きてもおかしくないという。
これはもう数十年来言われ続けてきた事で感覚が弛緩していたのは否めない事であるので、ある意味では横っ面をはり倒されたような衝撃があった。
ひとたび巨大地震が起きたらどうなるのか。
一目瞭然、百聞は一見にしかず。

人というのは愚かしい動物である。
野生の動物でも種の保存には命を懸けるのに、未だに同種での殺し合いを何だかんだと理屈をつけて繰り返している。
一つの物の見方として、あるいは人間を考える前提として「愚かさ」はかなりランキングの上位で挙げられるだろう。
しかし物事には様々な側面がある。
これがなければ人類は疾うの昔に淘汰されていたかも知れない。
愚かに見える諍いこそが自然の摂理だという見方もあるはずだ。

今年日本の東北から関東にかけて甚大な被害を伴う災害が起きた。
恐らく、これから先に我々が学ぶのは、この字面だけだろうと思う。
まるでテストの答案のような文字の羅列。
そうして、ある意味ではかなぐり捨てるように忘れないと前には進めないのも知っている。
これ程までに愚かで、これ程までに愚直で、直向きな生き物が人間であるのだ、と思う。

何度流されても再び砂上の楼閣を砂浜に作り上げる子どものように。

何日かの過ぎ行く様

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クリスマスが終わり新年を迎えるまでの慌ただしい日々が結構好きだったりもする。
だいたいこの時期は休みに入っていることが多いのだが、休みの長短に関わらずあっという間に曜日の感覚を失う。
曜日の感覚がないというのは実に自由な感じだ。
一日が24時間で、一週間は7日間というのも、多分休みが続けば感覚をなくしていくのではないかと思う。
僕らが日頃とらわれている規範のようなものは、これほどまでに脆弱なもので、いかにも人間が後付けで生み出した理屈であることを証明すろようで爽快ですらある。

さて、様々な外的、あるいは伴う内的な要因で翻弄され続けた2011年も幕を閉じようとしている。
今年初めの初詣では家内安全と皆が幸福であるようにと祈念したのだが、神様というのもかなり気まぐれであるようだ。
来年は何を祈ればいいのだろう。

視覚

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さすがに年の瀬。
仕事はすでに休みになっているのだけど、雑用がどっさりと残っていて、日常勤務のある日よりも忙しい(笑)

写真は昨日の撮り納めのものだ。
岡崎・板屋町の旧赤線街だが、ここは以前にも訪れている。
地図で見ると広い道路が突然狭い路地になっていたり、屋根の庇に灯りを付けるソケットが残っている建物が現存していたりと、そこかしこに面影を垣間見ることができる。
以前に訪れた時とそれほど変わった様子はなく、何となくほっとしたり。

ファインダを覗いてブライトフレイムでフレイミングするというのは何のレンズでも同じことだ、というのはセイケトミオ氏の言っていたことだが、僕も全く同意見で、広角だからとか何mmあるから、という前口上はあまり意味がないと感じている。
引きが取れない場所なので建物全部をフレイミングすることはできなかったが、僕が見ていたのは確かにこれらそのものだったし、例えばもっと広角であってもこの被写体を中心にして撮っていたと思う。
僕が自分の写真について、今年変わったな、と思うのは、この割り切りができるようになったことだ。
昨年までであれば、50mmでも何とか建物全景を撮ろうと、ひたすら下がって撮っていたが、今年になってからはフレイムに収まるものだけを撮るようになっていた。
それで撮れないものは撮らない。
そういう割り切りができるようになったのは、やはり大きな変化であったと思う。

そういった変化は何も、今年だから、とか時間割のように年次で訪れるものではないが、加齢以外にも視覚においての変化はあるのだな、と実感している。

A miss is as good as a mile

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明日あたりからは家事の年末進行が始まるので、ブログ更新も侭ならない、というか写真を撮る暇がないと思われるので、今日はM5で撮り納めをしてきた。

今年もこんな(↑)写真ばかりを撮ってきた。
自分で改めて眺めてみても、もうこんなんばっかりで笑ってしまうくらいだ。
でもまぁ…。
それもこれも含めて自分の写真なのだから仕方がない。
多分来年もこんな写真ばっかなのだろう。

身の丈というか、丁度いいということが今年はまるで自分のテーマのようになっていた。
写真のことだけではなくて、生活すべてに於いて。
丁度いいというのは実に難しい。
というのも、世の中に僕にとって丁度いいという基準で準備されたり作られたものなどないからだ。 
となれば、今度は自分を合わせるしかない。
でもそれって「丁度いい」ってことなのか?と。

運良く他の基準で作られたものが自分に合っていたとしても3日もてば良い方で、自分の中の基準など、もはや基準とすら呼べないくらい流動的である。
そんな不確かな線引きで物事を判断してしまって良いのか。
自分はもっとやれるのであって、周囲の空気から線を引いてしまっているだけではないか。
否、寧ろ逆で、自分は全然やれないのであって、周囲が期待するから其処に線を引いてしまったのではないか。
ぐだぐだ考えながら呑む酒は一向に酔えない。
そんな晩がいくつかあった気がする。

あらゆる価値は相対的である、というのは高校生くらいからの銘だ。
10代の頃にそれを言ってしまったので、僕はその後をずいぶんと醒めて過ごしてきた。
ガールフレンドの何人かは呆れて去っていったし、僕はそうして過ごす事に何か意味があるような気すらしていた。
もちろんそんな事に意味などない。
相対的であろうと絶対的であろうと、夜になれば朝は来るし、新しいガールフレンドができれば食事をして、ビールを飲んで(これは僕だけだが)ベッドに入った。
僕は実際には意味を求めていたのではなく、そうする事で世の中と渡り合おうとしていたのかも知れない。

画して僕はあっさりと、いとも簡単に飲み込まれた。
相対的だ、と言い切るには多くを求めすぎたのかも知れない。
その言い訳に僕は自分に対して「丁度いい」などというお為ごかしを思いついた。
村上春樹流にいえば「やれやれ」である。

ほっといても2012年は来るようだし、じたばたしても無くしたものは戻らない。
もう出家でもしようかな…(笑)