明治飛行場跡

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碑文
太平洋戦争たけなわの一九四三年四月、横須賀海軍施設部の監理の下、
当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた
約二百ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。
そして翌年三月下旬から終戦(一九四五年八月十五日)に至るまで、
建設工事と平行して海軍航空隊が航空基地として使用した。その間、
配属航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、
当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」
「彩雲」等)の使用に完熟させるための練成訓練を行うとともに、
一九四四年十二月から翌年四月にかけては、作戦部隊として主に
名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の要撃や、
米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。
また、一九四五年一月十三日早朝、この地区を襲った三河地震
(東端の被害、住宅全壊七十七、同半壊百二十一、死者二十四、
重傷五、軽傷三十六、等)の際は、近隣町村被害者の救出・救援
並びに災害の復旧に当った。大東亜戦争終結五十周年を記念し、
改めて世界恒久の平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世
に伝えるため、この碑を建てる。

隣接する神社の慰霊碑には斯う記して有った。
明治飛行場跡地は比較的見つけ易い戦争遺跡で有り、今回も然程の苦労も無く見つける事が出来た。
上の写真は燃料庫と機関砲台で有った物との事。

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此れ等は弾薬庫で有ったらしい。
片方は朽ちるに任せて有るが、一方は倉庫に転用して居る。
双方の建物も屋根は空襲の爆撃で吹き飛ばされたとの事で有る。

農業地帯で有る所為か、斯う云った遺物を取り除くのでは無く、其の侭利用しているのは何かしら長閑な印象で有る。
第二一〇海軍航空隊は昭和二十年の神風特別攻撃隊にも十六機出撃して居り、又沖縄戦にも増援を送って居る。
近隣に軍関係の施設が有ると、斯う云った場所が生まれるのは摂理で有る。

折しも憲法改正が議論される昨今、此処から飛び立って行った若者達の心持ちを慮る時、朽ちて行く遺構は何を語り掛けるのだろうと思う。

罪なカメラ

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SIGMA DP2 Merrill

僕は元々肌の色素が薄いのか色が白い。
日焼けをすると真っ赤に成りひりひりと傷み、其の後皮が剥けて、黒く成らずに元に戻る。
しかし此の年齢に成ると、然う云った若い頃の無茶が、染みだとか雀斑だとかに成って来る。
酷い物で有る。

テレビがデジタル放送へ移行した時に、女優で有るとか女性アナウンサーで有るとか、日常的にテレビキャメラの前に立つ女性達は肌の手入れに余念が無かったと聞く。
今回 DP2M で自分の顔を撮影してみて、此の話に合点が行った次第で有る。
正直、自分の顔をまじまじと見る事等、然うは無いので有る。
幾ら若い頃に部活だの遊びだので無茶をしたとは云え、此処まで酷い事に成って居るとは思って居ら無かったのだ。

今更如何する事も無い。
実は斯う云った肌の様子は親父も同様で有るので、此れは血筋で有ると云える。
しかし、まァ罪なカメラで有る。

清水

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Leitz Summilux 50mm F1.4 ( 1st ), Rollei RETRO 80s, Leica M3

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

と wiki には有る。
「清水の舞台から飛び降りる〜」と云うのが有るが、実際に江戸期には二百余名が飛び降りたらしい。
併し殆どが死に至る事は無かったと云う。
鞍馬寺、広隆寺と共に平安遷都以前からの歴史を持つ。

此処は、以前にも書いた事が有るが、鳥辺野と云う風葬の地で有った。
鳥辺野は、東山区南部、阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地で、鳥辺山の麓一体を指す。
平安時代以前から北の蓮台野、西の化野と並ぶ東の墓地・葬送の地と成って居る。京都で地名に「野」が残るのは風葬地で有った事を示す。
清水から西へ、東大路を越えて松原通 ( 当時の五条通 ) を進むと、小野篁が冥界へと行き来をしたと云う井戸が有る六道珍皇寺が有り、六道の辻と云う彼岸と此岸の境が有る。
詰り、此処は彼岸で有る。

あだし野の露消ゆる時なく、
鳥辺山の煙立ちも去らでのみ、
住みはつるならひならば、
いかに物のあはれもなからむ
世は定めなきこそいみじけれ
命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし
かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし
つくづくと一年を暮らすほどにだにも、こよなうのどけしや
飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢心地こそせめ

徒然草 吉田兼好