オンラインフォトグラファーの憂鬱

8423059483_945849d557_b

8423131763_4580e940ef_b

8423046771_56e95b4a05_b

1、2 枚目 Jupiter-12 35mm F2.8, 3枚目 Leitz Summilux 50mm F1.4 ( 1st ), Rollei RETRO 80S, Leica M3

最近は休日にフイルムを使い、平日はデジタルと云うのが当たり前に成って居る。
併し此の週末は中途半端にフイルムを使い残して仕舞ったので、今日の撮影分も合わせて二本としたので有る。
二日で二本等とは何の自慢にも鳴ら無いのだが、現像も久しぶりに二本同時に行なった。
然う成ると厄介なのが Flickr にアップロードをする事で有る。
枚数が枚数に成るので自宅の環境だと酷く時間が掛かる。
従って現在終了して居る分で此のブログを書いて居る。

冥途

8415731071_20946d6502_b

8415704383_1570b76129_b

8416819046_e002f099b7_b

SIGMA DP2 Merrill

内田百閒「冥途」を読む。
内田百閒に附いて何事かを書く必要も無い程の小説家で有る。夏目漱石の門下で有った。
冥途は 1922 年の作だと聞く。内田百閒の第一創作集に有る。

夢の話で有る。
夢と同時に僕の脳裏を過るのは黒澤明監督に因る「夢」と云う映画で有る。
僕は内田百閒の「冥途」を読み乍ら、頭の中では其の映像が繰り返されて居た。

内田百閒の作は何れにも云える事だが、目を惹く様な文章が有る訳でも無いし、まァ人夫々では有るが読み易いと云うのでも無い。
只、気持ちの波動が巧く合えば、ジワリと染入る様な、極めて浸透圧の高い文章で有る。
此れは黒沢の「夢」も同様で、映像作品で有る故に視覚から入る情報は確かに印象深く有るのだが、其れを脳内で何度も反芻する内に、場面の一つ一つが自分の記憶の夫々に何をかを語り掛けて来る様に成って居る事に気付く。

高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。

映像は文章を緻密に再現するが、内田百閒も精緻で高度な文章を以て、曖昧な映像で有る夢を再現する。
「梟林記」「山高帽子」「昇天」「青炎抄尽頭子」「件」「蜥蜴」「短夜」「疱瘡神」「波止場」「豹」「遊就館」「映像」「猫」「矮人」「水鳥」「雪」「波頭」「先行者」等の短編が有るが、何れも不気味な静寂と奇妙な安堵感 ( 此れは作者で有る一人称が酷く冷静に目前の出来事を捕らえているからで有ると感じる ) に包まれて居る。
僕個人は山高帽子が一等恐ろしかった。

静謐で美しい、此れは当に黒沢の夢で見た、彼の美しい狐の嫁入りの様では無いか。

渇望

8414675720_553cd1d837_b

8415712313_bb742b4b84_b

8416793174_1df7ed4e19_b

SIGMA DP2 Merrill

「旅」を渇望するのは誰もが抱く欲求では無いだろうか。
毎日同じ道を通勤・通学して居ると、段々と行動半径が小さく成って来るのを実感するし、然う感じ始めると一刻も早くに此の円周から踏み出したいと云う、黙し難い感情に囚われる。
僕は彼方此方に出張る事が多い仕事なのだが、其れは飽く迄「仕事」なので有って、狭義では旅なのかも知れない ( 少なくとも移動中には ) が、時間にも行き先にも制約が有る状態では「旅」だと認識するには色々と諦め無ければ成ら無い事が多い。

此処まで書いて、僕が渇望するのは「放浪」だと気付く。
「旅」には時間や行き先の制約が有って良いのだ。
僕が望んで止まないのは、何時でも無く何所へでも無い継続的な移動だ。

意識する、し無いに関わらず、此の極東の小島に住む我々が農耕民族で有って、其れは定住型の集落を形成して来た経緯が有る。
此の経緯は我々の無意識下の最下層に有り、あらゆる公道を支配して居ると云っても良い。
だから戻る場所の無い移動には二の足を踏むので有って、「放浪」や「流離」は民族の本能としてし得ないので有る。
詰り、我々は獲物を求めて移動を続ける必要が無い民族の末裔なので有る。
只、平たく全ての動物の生活を鑑みるに、寧ろ移動し続ける事の方が自然の成行きと見える。
其所で僕の「放浪」への渇望は、摂理で有ると云える。

ぽいと外に出て、当て所無く歩き続ける。
夕飯には帰る、とかでは無く、疲れて眠く成る迄歩く。
少し前に流行った「自分探し」等と云う物では無い。然し足る理由等必要無い。
そんな事を強く望んで居る。