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写真を撮る中で何かに迷ってしまったり、どうにも気持ちが乗らない時に開いてみる。
どの写真を見ても思うのだけど、もうこういう写真は撮れないんだろうな、という事。
ストリートスナップが法的にどうだ、とかの話ではなく、ここの写っている人々の表情を見て思う事だ。
木村伊兵衛が街に出てスナップしていたのは、戦前から戦後、昭和 30 年代までの頃だ。
もちろん亡くなる直前まで写真は撮っていたが、木村伊兵衛の代表作として挙げられるのは、殆どがその頃の物だ。
作家として脂の乗り切っていた時期だったのだろう。

時代としては決して良い時代とは言えないと思う。
戦前は戦争に向かって一直線に転げ落ちる頃であるし、戦後は本当に何もかもが灰燼に帰してしまった時期だ。
人々は疲弊し、夢や希望などというのは絵空事のように思った事だろう。
しかし木村氏の写真を見るに付け、時間を経る毎に確実に街は立ち直って行く様を実感できる。

冒頭に「もうこういう写真は …」と書いたが、それは人々の表情である。
僕の市井の人々の写真を見てもらっても分かると思う。
それは皆がすべて同じ表情をしている事だ。
否、皆がすべて無表情だ、と言い換えても良い。

時代の所為にして出来ない理由を並べ立てても仕方がない。
この時代を記録しておく事は、多分数十年後に意味が生まれるはずだ、と考えている。
その時、その時代には。
人々は一体どんな表情で街を歩くのだろう。

定本 / 木村伊兵衛

ADIEU A X

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私、今日、素朴な写真家にまいもどりました。
だが、私、素朴な写真家にまいもどったとしても、新たに現実世界に出会った時には、自意識が解体され、自らの意識を新たに造り上げねばならぬ行為そのものが、無限に課せられてくる。それは、ある意味において、写真家で在る私のさだめで在ろう。

私、ほぼ日々、与えられている諸雑誌、その他を眺めたら、各誌に発表されている写真作品のほとんど全ては、具体的に言えば、ヌード作品を初めとして撮影行為の原点すらも”あやふや”化し、商品として売り続けています。それら全ての作品は、写真家達各自が、ある意味において、造り上げていた美意識を基点として、対象そのものまで、撮影の為に位置づけ、その通り撮影し上げた作品が、全く多い、のです。それら諸作品を眺め、感動する読者も在る、と言えば、在るでしょう。だが、私、それら総体を眺め、それらの多くが、”写真”と言うメディアが持ち得る基本的力そのものを無益に拡大して行き、終極的に言えば、次第、次第に、写真と言う言葉が持ち得る力そのものを喪失しつつある、点に気づきました。

私、自ら造り上げてきた写真に関する美意識を拠点として、撮影し続けているので在るが、突如、自らの意識を乗り越えた、全く新たなる対象そのものと出合った時、その瞬間から撮影し始めているのです。自らの意識を乗り越えた、と言うことは、世界に関して確立していた意識を、ただ単に展開、展示してゆくことでは、決して無く、世界そのものの持つ力を、自ら率先して引き受けて行くことが、他ならぬ写真家で在る私の基本点なのだ。

私、毎日、”Long Hope”ならず”Short Hope”を吸い続けています。
それに即して言えば、写真、撮影行為においては、一挙に、世界総体を把握することが出来ず、日々、短い希望なのだが、それに依拠して、私、世界を全的に捉えることを願いつつ、生き続けています。

中平卓馬。
「写真家・東松照明 全仕事」のトークショーで、ゲストでありながら一言も発しなかった男 ( 笑 )

ADIEU A X〔アデュウ ア エックス〕