ダルマから巫女のセクシーを経て絵馬に至るまで

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ひとつ試してみたいことがあって、年始にあえて声に出してみよう、と。
それはフォーマットを固定すること。
固定といっても現在は 6×6 か 3×2 しか使っていないので、そのどちらかになるわけだが、6×6 に取り組んでみるつもりだ。

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理由は幾つかあるのだけど、一番大きな理由は、このフォーマットをメインにしたことがない、ということ。
そしてフィルムでも、デジタルに対して幾ばくかのアドバンテージがあるのがミディアム・フォーマットだ、ということ。

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もちろん機動性は劣るので、アップできる写真はぐっと減るが、自分で納得がいくまで 6×6 オンリーでいってみようと思っている。

メタファ

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まったく関係ない話だけど、僕は「~し」とか「~き」とかの古典表現をわざわざ使うのが大嫌いだ。
ブログのエントリータイトルにも時々使われているのを見かけるが、春を題材にしたものに多い気がする。
たぶん藤村の「はつこひ」辺りに感化されてか、もっといえば「いきものがかり」や「松任谷由実」あたりかも知れない。

島崎藤村の「若菜集」は1897年に刊行された処女詩集だ。
「初恋」はその中の一つであり、教科書にも載るほどの代表作になっている。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

暗誦出来るほど繰り返し眺めた詩である。
現代の詩歌は多少の毒気があった方が受け入れられ易いとされているが、ここでは毒の欠片すら感じられないほど純粋で優しい。

1897年といえば明治30年。
京都大学ができた年だ。
この時代であれば自然な助動詞である。

「まだ上げたばかりの前髪が 林檎の木の下に見えたとき」 
現代訳であればこうだろうか。
これはこれで味わいもあるし意味も伝わりやすい。 
それをわざと古典表現にするのは如何なる意味があるか。
「あざとい」としか感じないのは僕が偏っているせいだろうか。

年末の歌合戦などを見ていても出てくる歌の歌詞はどれもが「ストレイト」と称される、何のメタファもない想像力の乏しい(といわざるを得ない)歌詞ばかりだ。
そんな歌ばかりの中、助動詞をちょっと弄るだけで、如何にも「それらしく」見せようとする作家の思惑はどうなのだろう。
一応は言葉に気を遣いながら書いているので、そういった細かな事が気になって仕方ないのである。