夜行

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( 写真は昨年の二月七日の物 )
こちらのブログを拝見していて、ふと脳裏を過る記憶があった。 

夜汽車の経験は数えるほどしか無い。
学生時代に北海道へ行くのに旅費を節約する為、行きは列車を選んだ。
金は無いが時間は腐る程あった、と言う幸せな時代である。

正確には夜汽車では無いが、東京から名古屋に戻る場合は殆どが日没後の列車になる。
この路線は、恐らく通勤以外では一番多く乗っている路線では無いかと思う。
只、其の中でも未だ忘れ得ぬ乗車がある。

僕は一度だけ「都落ち」の経験がある。
志半ば…と書けば格好も付くが、実際は気持ちと体が仕事に付いていけなくなったのだ。
其れがあるまで、僕は「無敵」であった。
出来ない事など無い、とばかりに、今思えば相当に無茶な事もした。
根拠など無い自信に裏打ちされた物など、強大な現実の前にはいとも簡単に崩れるのだが、当時はそんな単純で、しかも確実で強かな道理に気付きさえもしなかった。

失意のどん底 ( これも今から思えば「底」ですら無かったのだが ) で新横浜のホームに立った。
新横浜は、今でこそ首都圏の便利で華やかな駅の様相を呈しているが、当時は街外れの、事に縁れば寂し気ですらある駅だった。
平日の終電間際、いっそ終電であれば案外と込み合うのだが、下りのホームの人影は疎らであった。
僕はどういう訳だか、もう二度と此処には来れないと思っていた。
「来れない」ではなく「来たく無い」だったかも知れない。

見送ってくれる人も居らず、半ば呆然としたままで、僕はやがて来る新大阪行きをぽつねんと待っていた。
明日の事すら分からない。
其れがどんなに心細く、そして現実に自分自身がそういった状況に置かれている事に、僕は納得も出来ず、何か夢でも見ているかのように感じていた。
誰かが慰めの言葉をかけてくれる度に「負け」とか「敗者」という言葉が過る。
意気揚々と上りのホームに降りたあの日がまるで遠い昔のように感じた物だ。

今なら品川から乗っても新横浜辺りでは眠気が襲ってくるような物だが、その日は名古屋までうつらうつらとすらしなかった。
自宅に帰るのに、此れほど重い気持ちであったのは経験が無かった。
豊橋を過ぎた頃、僕はようやく乗車からずっと握り締めていて、すっかりくしゃくしゃになってしまった乗車券に気が付いた。
掌にはじっとりと汗をかいていた。

人生の中の、良く在る些細な一齣である。
其れから後にも、此れを上回るような失意や苦しみも何度も味わい辛酸も嘗めた。 
生きると言う事は生易しい事ではない。
ようやくその境地に一歩進んだ事に気付いた二時間弱であった。

1/2秒

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旅するカメラ4を読んだら、土屋さんが1/2秒でポートレートを撮ったというのがあった。
レンジファインダならファインダのブラックアウトがないから、顔にカメラを押し付けて1/8秒が限界だと思っているのだけど、そりゃ3脚使ったんだよな、とか。

でも1/2秒って殆ど使ったことのないSSだなと思い、えいやっと手持ちで撮ってみた。 
まーブレる(笑)
それでも思ったほどじゃない。

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こっちは普通に撮ったもの。
並べてどうだって話じゃないけど、人待ちでヒマだったもので(笑) 

新商品

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昨日の「GXR A12 Mマウント」TLの中で、広角は難しいというのを見た。
何をして難しいと言っているのかわからなかったが、どうやら普段は標準画角を常用されているようなので、ははぁと感じた次第だ。
標準や準標準とされる50mm前後の画角は写るものが等倍(見た目に等しい)ということで標準とされている。
実際には何かを注視したときの画角に近く、何気なく視線を漂わせている状態の視界ではない。
視界を全て収める感覚で言えば28mmから21mmくらい。
これ以上となるとスナップなどでは構図を考えたりするのは難しい。
15mmなどでは視界に入らないものも写り込んでくるからだ。

たとえばSWHなどはAPS-C機で使えば22mmくらいに換算されるが、パースの付き方が15mmのままなので純然たる22mmレンズとは違う世界になる。
フルサイズ15mmは周辺がかなりデフォルメされるので、自然なパースでということになると21mm辺りがリミットではないかと思っている。

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GXR Mマウントはライブビューが使えてフォーカスアシストもあるので、長玉に良いのではということをツイートしたが、これはライカなどのRFで50mm以上のレンズを使ってみたことのある人には福音だろう。
90mmなどでは絞って使うのならともかく、開放近くではまずピントは来ない。
R-D1などはこれを見越しているのか、50mm以上のブライトフレームすらない。

これとは逆に広角レンズ(28mm以上)であれば、ライブビューやフォーカスアシストなどの恩恵は少ないだろう。この3枚はいずれもノーファインダーで絞りはf/5.6から8の間だったと思うが、換算60mmでもこの程度にはピントが来る。

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と、まぁタマには写真ブログみたいなことを書いてみた。
実際のところ50mmより長いのを使うことは今のところないしレンズもない。
魅力的な商品だけれども手に入れるならR-D1とトレードになる。
それはちょっとなぁ…。

換算60mm

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どうも換算60mmという画角がよく分からない。
R-D1などのAPS-C機に35mm用のレンズを付けると焦点距離は1.5倍になるので、ノクトン40mmは60mmの画角ということになる。
レンジファインダー(純然たる意味で)なので、厳密なピント合わせは難しい。
こういう物は被写界深度を深く取って撮るのが正解なのだ。

しかし街でスナップをやる時には、構える余裕すらない場合もある。
そういう時はノーファインダーで撮るわけだが、ピントはともかく画角の感じが掴めない。
フィルムで撮るのであれば40mmは極めて35mmと近い感覚で撮ることができるが、60mmという焦点距離があまり一般的ではないので(マクロなどではあるが)、それに近い感覚を呼び起こそうとしてみるのだけど、一番近しいと思われる50mmの感覚とはまるで違うのだ。

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僕自身、これまで50mm以上のレンズをあまり使って来なかったせいもあるが、例えば28mmであれば被写体に対してこのくらいの位置に立って撮れば、だいたい何所から何所までが写るというのは経験から分かる。
これは35mmも同様であって、また両者はシームレスに近い感覚で使うこともできる。
しかし50mmとなるとそうはいかない。
自分の目で見た大きさと同じくらいの大きさで撮れるというが、どうもその等倍という感覚に馴染めないのだ。
ましてや60mmとなると、さらに違和感は大きい。

デジタルなのでボケも小さいから5.6くらいに絞れば目測で距離は問題なくなる。
ただ何所から何所まで写るという感覚がないまま撮るのは非常に心許ないのだ。
これはやはり慣れるしかないか…。

不健康な健康

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台風が過ぎたら秋が来た。
幾らなんでも、ちょっと極端過ぎやしないかと思うが、昨日から扇風機ですら要らない。

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とはいえ空はまだ夏の名残り空だ。
日差しは強く、青も未だ濃い。
強い夏の日差しの中で揺れる木漏れ日が好きだが、あとどれくらい見られるだろう。
夏から秋へは季節柄台風があるので、その変遷はラディカルであったりする。 

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日傘も好きである。
昨今は黒い日傘が主流のようだが、透過光が表情を浮かび上がらせるような白っぽい日傘も美人度が増すので、ご婦人方には是非オススメしておきたい。
日傘は紫外線対策としては3シーズンくらいは使うものになってきただろうか。
とすれば未だ暫くは見かけるのだろうが、やはり夏の強い日差しの方が似合うものであろう。

そういえばこの夏、熱中症の危険が喧しかったせいか、男性の日傘を時々見かけた。
見慣れないせいと傘をさしている方も慣れないせいもあってか、実に違和感のある光景であった。
どう見ても晴天下に勘違いで雨傘をさしている人にしか見えないのだ。
まぁこれも時代の変遷。
今年よりも来年、来年よりも再来年の方が違和感がなくなるだろう。
そして普通のことになっていく。

どこもかしこも「健康」という権力が大手を振って歩く。
何物にも代えがたいのが健康であって、不健康なものは徹底的に排除され淘汰される。
W.H.Oが何々が発がん性物質を含んでいると言えば、昨日までは旨いね~とか言ってた連中が、さも昔から知っていたかのようなしたり顔で「そんなのを食べるなんで信じられない」とのたまう。
昨日まで旨い旨いと言っていたじゃないかと言うと、「じゃあ君はそれでがんになって死んでもいいのか」と言う。

宗旨替えはエキセントリックになる。
それはそのプロセスで多大なストレスを抱えたりするからだ。
そのストレスの発散は宗旨替えしない人に向けられる。
そして、その論拠は何を差し置いても「健康」である。
「健康」は何よりも優先され、ともすれば他人の権利よりも自分の健康になってしまう。 
そしてその理論は恐ろしいことにまかり通るのだ。

いやはや…。

何とも住みにくい世の中だと、不健康な僕は思うのだ。