瀬戸・陶華園

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ネットサーフィン(死語)をしていたら、仕事でちょくちょくお邪魔している瀬戸市にも赤線跡があるという。
これは是非とも行かねば、とあれこれ資料を探してみても、殆ど(そういった物があった)という程度の物しか見つからない。最盛期はどれくらいの店数だったとか、どれくらいの人数の娼妓が居たとか、中村遊郭ではいとも簡単に見つかったのだが、城東園と同じく場所すらはっきりと分からない有様だった。
こういう時には先にも書いたが案ずるよりも産むが易し。ひとまず出かけてみるに限るのだ。

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いろいろサイトや資料を調べてみて、だいたい見当を付けた場所が「新開地」近辺。
こういった場所は表通りに面していることがまずないので、新開地交差点から一本裏の道を歩いてみる。
するとほどなく、いとも簡単にそれと分かる区割りのエリアを発見した。

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他の場所では旅館があったり飲食店があったりと、割合目印になる感じの物があったのだけど、ここは全てが民家となっているので、注意を払っていないと見過ごしてしまうかも知れない。
同じ高さの建物が並び、当時の建物にしては二階部分の高さがある。
これは西側から東を望む写真。東端は瀬戸街道に面していて、街道からは斜めに入る脇道になっている。

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こちらは東側から西へ。イオンの看板が目印になる。
突き当たりに保育園があるが、この場所には検番があったという。

一番上の写真の家が当時の面影を一番残している家かも知れない。よく見ると、玄関脇の壁がひょうたん型に抜かれている。
二番目の家屋も玄関の飾りが面影を色濃く残している。

区割りには、かつてここはそういった場所だったということは感じるが、殆どすべてが民家であるために雰囲気はずいぶん違っている。
特徴が残るのも先の二軒くらいである。
ただ近隣にはかなり古い民家を幾つか見かけた。
昭和初期には花街として、戦後は進駐軍相手の色街として栄えた場所。もう少し丹念に調べれば、姿形がはっきりしてくるかも知れない。

8月12日に思う (4)

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「520名」とひと言で書いてしまうと、途端にリアリティを失ってしまう。
全員が顔のない匿名の人になってしまうが、520名それぞれに生活があって、家族がいて、それぞれの思いがあった。

25年。
そのときに生まれた人は、もう既に成人して、新たな家族を持っている人もいるかも知れない。時間の経過は緩やかに、しかし確実に流れている。

あの事故以降、航空機の事故がなくなったかといえば、残念ながらそんなことはなく、つい先日も墜落事故が報じられている。
現代の移動システムは高度にシステム化され、そのシステム自体に疑問を差し挟む余地すらない。
だがひとつボタンを掛け違うと、そのシステムはシステムの中の最弱の部分に向かって牙を剥く。

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人の営みはトライ&エラーの繰り返しの中でプルーフされている。三歩進んで二歩下がるのだ。
そんなことは重々承知しているし、そのリスクなしには何も進歩していかないのも分かる。
だが、その反復の中で犠牲になった人たちの命の重さは、今生きている我々のものと何一つ換わることはないのだ。

古くはいにしえの合戦で敵の刃に倒れた者も、先の大戦で銃弾に倒れた者も。

改めて520名の冥福を祈るとともに、現代の礎になっている数多の犠牲にも敬意を払うべきであると強く思う8月12日である。

8月12日に思う (3)

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翌年の夏、僕はカリフォルニア州立大学ロサンジェルス校に留学することになった。
成田から出発したのだが、出国手続きを終えて搭乗を待っている時のことだった。
誰かがふと「あー、去年落ちた日航機と同じ型の飛行機だな」と呟くのが聞こえた。

次の瞬間、僕の脳裏には件の写真が鮮明に蘇った。その場で足が竦んでしまった。
真夏の眩しい日差しが差し込んでいる周りの景色が急に暗くなり、僕はパニック発作を起こしてしまったのだ。

過呼吸になり医務室に運ばれて手当を受けた。幸いにも搭乗予定の便の機材到着が遅れていて、何とか出発には間に合ったのだが、僕はロサンジェルスまでの9時間、ほとんど眠ることができなかった。
その後、発作がでることはなかったが、まったくの他人事であったはずの事故が、まさしく自分の身に降り掛かる出来事になった瞬間でもあった。

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今年もあの夏と変わらない夏である。
甲子園では球児たちが熱い闘いを繰り広げ、盆休みの帰省ラッシュも始まろうとしている。
夏の夕暮れは何処かホッとしたような安堵感があり、同時に一抹の寂しさも感じさせる。

ふと見上げると遥か上空を飛行機が飛んでいった。
東の空には積乱雲が堆く積み重なり、青から赤へ見事なグラデーションの中を銀色に輝きながら、一条の飛行機雲を残していく。

僕は猛烈な吐き気を覚えて、慌てて車を停めた。
僕にとっても、あの日はまだ終わってはいなかったのだ。

8月12日に思う (2)

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事故機のフライトレコーダーの詳細や事故原因についての言及があるサイトは言い方は悪いが「腐るほど」ある。だから僕はもうここには書かなくて良いと思う。あれこれ思うことはあっても、僕は航空力学の権威でもないし、それらの憶測を実証できる可能性は果てしなくゼロに近い。だから僕はこの事故で感じたことを書こうと思う。

自宅に戻ってテレビを着けると、どの局もすべて報道特別番組になっていた。各局ヘリコプターを飛ばして、レーダーが機影を見失ったであろう場所を捜索していた。
火災を起こしている場所は、割合早い段階で見つけられていたと思う。しかし自衛隊の救助は一向に始まる気配がない。放送も淡々と乗客名簿を読み上げるだけだった。もうこの時点では誰も低空飛行を続けているとか不時着をしているとかの希望的観測は持たなくなっていた。

乗員・乗客合わせて524名。
(ちょっとした学校ひとつ分じゃねぇか)
そう思った。

当時テレビは終夜放送している局など殆どなかった。
だがその日はすべての局が終日報道特番を放送し続けた。
お盆の直前、満席のジャンボ機。乗客には阪神タイガースの球団社長や歌手の坂本九さん、ハウス食品の社長の名前もあった。
中には甲子園に出場している息子の応援のために事故機に搭乗していた父兄もいた。

羽田・大阪便はビジネスシャトルでもあった。
事実大半が出張帰り、あるいは出張に向かうサラリーマンの乗客だったらしい。
事故現場から見つかった、メモに走り書きされた遺書には、残される家族への思いが綴られていて涙を誘った。

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520人が一度に死ぬ。
僕は現実の問題として理解できなかった。
航空機が墜落したら一体乗っていた人はどうなるのか。
それも想像すらつかなかった。

僕は当時19かハタチくらいだった。
それまで親類などの、ごくごく当たり前の「遺体」しか見たことがなかった。
見栄えよく清められて、装束をつけた遺体である。
当時の僕にとって「死」とは正にそれであった。
見たこともなければ、想像だって覚束ないのは当然だろう。

当時壮絶な部数競争をしていた写真週刊誌で、僕は事故現場の写真を目の当たりにした。
凄まじい写真だった。
僕は生まれて初めて「事故現場の遺体」を見たのだ。

事故現場にたどり着いたカメラマンや記者たちは、その現場の凄まじさに「人生観」が変わってしまった人もいたという。
後年読んだ本に「墜落の夏」という本があったが、遺体確認も困難を極めたという。
五体満足の遺体が殆どなかったというのだ。
ある医師はカルテに初めて「全身挫滅」という言葉を書いたという。
事故機の機長であった高浜氏の遺体は歯のついた顎の骨の一部しか確認できなかったというし、他の遺体も似通った状況だったという。

それまで、いやその後においても、その事故は他人事であった。
不謹慎だと言われるかもしれないが、事故のニュースを見聞きするとき、何処かに野次馬的な気持ちがないのかと問われれば、やはりあると認めざるを得ないだろうと思う。

だが、それから一年ほど後、僕はこの事故のフラッシュバックのような恐怖を体験することになった。

8月12日に思う (1)

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8月前半には、何か日本にとってエポックメイキングな出来事が集中している。
広島・長崎への原爆投下、そして終戦。その後40年が経とうとしていた昭和60年には、日航ジャンボ機が墜落事故を起こしている。

航空機の単独事故としては史上最悪の520名という犠牲者を出したこの事故は、ただの事故というだけでなく、それに関わったすべての人々の、その後の人生に大きな影響を及ぼし、今も尚その傷は癒えることのない深手になって残っている。

毎年この時期になると、当該事故に関して様々な憶測や推論があちこちで披露されている。
これは事故直後に行われた事故調査の結果に、いわゆる「つっこみどころ」が多いせいであるが、僕はトンデモ陰謀説やらには加担する気はない。
確かに「?」となるような調査結果もあるが、万が一それが何かの陰謀であったとして、おそらく未来永劫その真実が明かされることなどないだろうし、もしあの事故が人為的なものだとしたらなどと想像するだけで寒気がする。

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僕は当時大学生であった。
事故の一報を聞いたのは、バイト先のテレビだったと思う。
最初は誰も気に留めなかった。だが歌番組の途中で番組を中断してまで何度も入る速報に、やがてみんなが耳を留めはじめた。

「おい、何か飛行機が行方不明だってよ」「故障してどっかに不時着とかしてんじゃねぇの」「まさか何処かの戦闘機に撃墜されたとか」
その事故の数年前に大韓航空機がソ連(当時)の戦闘機に撃墜された事件が脳裏を過った。だが今回は国内線である。領空を侵犯するようなルートではないはずだ。
さまざまな憶測を口々に言い合ううちに、テレビは報道特別番組へと変わっていった。
これは大変な事故が起きたのだ。その時初めてそう思った。