臥薪嘗胆

7029376509_17aa6767e3_b
7029377051_3df7475765_b
7029378607_c10e66614e_b
6883274362_5590f838d4_b

右目が不自由になってから左目でフォーカスしたり、目測で距離を測ったりする事になった。
これはもう致し方ない事なので、あれこれ悩むよりも出来る事をやった方が良い。
で、今までやった事のない「ISO50 で 45mm のレンズ」でノーファインダーを試してみた。
しかも日陰であるので、たぶんシャッタースピードは 1/30 とか 1/15 ( 開放値は f/1.9 だが、なるべく被写界深度を稼ぎたかったので f/4 以上に絞っている ) になっている。
ま、予想はしていたが、まともに撮れるはずがない ( 笑 )
先にも書いたが、ISO25 とかのフィルムでスナップしていた先人たち、ブレッソンや木村伊兵衛氏らを改めてリスペクトしたい心境だ。

それにしても左目でのフォーカスは厳しい。
ライカのような鮮明な二重像分離があれば良いのだが、フジカのようなぼんやりした二重像では、かなりスピードが損なわれてしまう。
絞って撮影すれば良さそうなものだが、どうしてもフォーカスを探しにいってしまうので、やはりイライラしてしまう。
慣れの問題かも知れないが、暫くは臥薪嘗胆である。 

クライマックス

7029379955_a568ed0f0a_b
6883275190_9acc5d02f1_b
7029380533_fb6238a6e9_b

日頃、ふとした瞬間に「至福」を感じる事はあるだろうか。
特別な事ではない。
例えば日曜の午後、日差しのある窓際のソファでうたた寝をしている時。
オフィスでいち日の仕事を終え、窓から外を眺めながらコーヒーを飲む時。
家族と一緒に食卓を囲む時。

何も本やテレビにあるような「お約束」でなくても良い。
そういった瞬間は、実はそう多くないのではないだろうか。 
同じ場面にあったとしても、その時の気持ちや体調などでも感じ方は違うのであって、様々な要素が上手く嵌らないと、あの一種の「浮遊感」を伴うような感覚は味わえない。
しかし、まさにあの感覚こそが「生きている」醍醐味であって、他の何にも代え難いのである。

僕は過去、忘れられない至福の瞬間がある。
本当に何気ない生活の一コマであるが、言いようのない幸福な思いが溢れ出てきたのを覚えている。
もう二十年以上も昔の事だが、5 月の頃、土曜の午後に車に乗っていて、カーステレオからは大瀧詠一のこの歌が流れていた。 
燦々と日差しがあり、窓を全開にしていた記憶がある。
( ああ、これで十分だ ) と感じていた。

最近ではスナップ中にも感じた事がある。
やはり初夏の頃、コットンの長袖一枚でも心地良い時期だ。
首から M4 を提げていたから、最近といっても三四年は前の事。
薄く曇った土曜の午後で、いつものように街を撮り歩き、信号待ちでフィルムを入れ替えた瞬間に、やはり ( ああ、これ以上は望まない ) と思ったものだ。

思い出せるのは二つだけだ。
あの時に勝る瞬間は他にない。
共通するのは「一人」であった事。
「至福」などという瞬間は、もともと共有するようなものではないからかも知れない。
多分折り返しを過ぎた今、これから何度その瞬間を感じる事ができるのだろう。 

ISO50

6883282474_e634ae90de_b
7029383259_eea096ace6_b
7029385101_0ceffbd3fb_b

ISO50 なんて感度にしちゃうと、シャッターは 1/60 とか 1/30 とかになるんだけど、意外にブレてない。
もっとも日向の話で、日陰でノーファインダーで、という事になると、まぁ大変な事に ( 笑 ) 
そういう時はせめて ISO400 にしときましょう。

改めて木村伊兵衛には感服。