Leitz Summilux 50mm F1.4 ( 1st ), Rollei RETRO 80s, Leica M3
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
と wiki には有る。
「清水の舞台から飛び降りる〜」と云うのが有るが、実際に江戸期には二百余名が飛び降りたらしい。
併し殆どが死に至る事は無かったと云う。
鞍馬寺、広隆寺と共に平安遷都以前からの歴史を持つ。
此処は、以前にも書いた事が有るが、鳥辺野と云う風葬の地で有った。
鳥辺野は、東山区南部、阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地で、鳥辺山の麓一体を指す。
平安時代以前から北の蓮台野、西の化野と並ぶ東の墓地・葬送の地と成って居る。京都で地名に「野」が残るのは風葬地で有った事を示す。
清水から西へ、東大路を越えて松原通 ( 当時の五条通 ) を進むと、小野篁が冥界へと行き来をしたと云う井戸が有る六道珍皇寺が有り、六道の辻と云う彼岸と此岸の境が有る。
詰り、此処は彼岸で有る。
あだし野の露消ゆる時なく、
鳥辺山の煙立ちも去らでのみ、
住みはつるならひならば、
いかに物のあはれもなからむ
世は定めなきこそいみじけれ
命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし
かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし
つくづくと一年を暮らすほどにだにも、こよなうのどけしや
飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢心地こそせめ
徒然草 吉田兼好