8月12日に思う (4)

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「520名」とひと言で書いてしまうと、途端にリアリティを失ってしまう。
全員が顔のない匿名の人になってしまうが、520名それぞれに生活があって、家族がいて、それぞれの思いがあった。

25年。
そのときに生まれた人は、もう既に成人して、新たな家族を持っている人もいるかも知れない。時間の経過は緩やかに、しかし確実に流れている。

あの事故以降、航空機の事故がなくなったかといえば、残念ながらそんなことはなく、つい先日も墜落事故が報じられている。
現代の移動システムは高度にシステム化され、そのシステム自体に疑問を差し挟む余地すらない。
だがひとつボタンを掛け違うと、そのシステムはシステムの中の最弱の部分に向かって牙を剥く。

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人の営みはトライ&エラーの繰り返しの中でプルーフされている。三歩進んで二歩下がるのだ。
そんなことは重々承知しているし、そのリスクなしには何も進歩していかないのも分かる。
だが、その反復の中で犠牲になった人たちの命の重さは、今生きている我々のものと何一つ換わることはないのだ。

古くはいにしえの合戦で敵の刃に倒れた者も、先の大戦で銃弾に倒れた者も。

改めて520名の冥福を祈るとともに、現代の礎になっている数多の犠牲にも敬意を払うべきであると強く思う8月12日である。

8月12日に思う (2)

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事故機のフライトレコーダーの詳細や事故原因についての言及があるサイトは言い方は悪いが「腐るほど」ある。だから僕はもうここには書かなくて良いと思う。あれこれ思うことはあっても、僕は航空力学の権威でもないし、それらの憶測を実証できる可能性は果てしなくゼロに近い。だから僕はこの事故で感じたことを書こうと思う。

自宅に戻ってテレビを着けると、どの局もすべて報道特別番組になっていた。各局ヘリコプターを飛ばして、レーダーが機影を見失ったであろう場所を捜索していた。
火災を起こしている場所は、割合早い段階で見つけられていたと思う。しかし自衛隊の救助は一向に始まる気配がない。放送も淡々と乗客名簿を読み上げるだけだった。もうこの時点では誰も低空飛行を続けているとか不時着をしているとかの希望的観測は持たなくなっていた。

乗員・乗客合わせて524名。
(ちょっとした学校ひとつ分じゃねぇか)
そう思った。

当時テレビは終夜放送している局など殆どなかった。
だがその日はすべての局が終日報道特番を放送し続けた。
お盆の直前、満席のジャンボ機。乗客には阪神タイガースの球団社長や歌手の坂本九さん、ハウス食品の社長の名前もあった。
中には甲子園に出場している息子の応援のために事故機に搭乗していた父兄もいた。

羽田・大阪便はビジネスシャトルでもあった。
事実大半が出張帰り、あるいは出張に向かうサラリーマンの乗客だったらしい。
事故現場から見つかった、メモに走り書きされた遺書には、残される家族への思いが綴られていて涙を誘った。

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520人が一度に死ぬ。
僕は現実の問題として理解できなかった。
航空機が墜落したら一体乗っていた人はどうなるのか。
それも想像すらつかなかった。

僕は当時19かハタチくらいだった。
それまで親類などの、ごくごく当たり前の「遺体」しか見たことがなかった。
見栄えよく清められて、装束をつけた遺体である。
当時の僕にとって「死」とは正にそれであった。
見たこともなければ、想像だって覚束ないのは当然だろう。

当時壮絶な部数競争をしていた写真週刊誌で、僕は事故現場の写真を目の当たりにした。
凄まじい写真だった。
僕は生まれて初めて「事故現場の遺体」を見たのだ。

事故現場にたどり着いたカメラマンや記者たちは、その現場の凄まじさに「人生観」が変わってしまった人もいたという。
後年読んだ本に「墜落の夏」という本があったが、遺体確認も困難を極めたという。
五体満足の遺体が殆どなかったというのだ。
ある医師はカルテに初めて「全身挫滅」という言葉を書いたという。
事故機の機長であった高浜氏の遺体は歯のついた顎の骨の一部しか確認できなかったというし、他の遺体も似通った状況だったという。

それまで、いやその後においても、その事故は他人事であった。
不謹慎だと言われるかもしれないが、事故のニュースを見聞きするとき、何処かに野次馬的な気持ちがないのかと問われれば、やはりあると認めざるを得ないだろうと思う。

だが、それから一年ほど後、僕はこの事故のフラッシュバックのような恐怖を体験することになった。

8月12日に思う (1)

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8月前半には、何か日本にとってエポックメイキングな出来事が集中している。
広島・長崎への原爆投下、そして終戦。その後40年が経とうとしていた昭和60年には、日航ジャンボ機が墜落事故を起こしている。

航空機の単独事故としては史上最悪の520名という犠牲者を出したこの事故は、ただの事故というだけでなく、それに関わったすべての人々の、その後の人生に大きな影響を及ぼし、今も尚その傷は癒えることのない深手になって残っている。

毎年この時期になると、当該事故に関して様々な憶測や推論があちこちで披露されている。
これは事故直後に行われた事故調査の結果に、いわゆる「つっこみどころ」が多いせいであるが、僕はトンデモ陰謀説やらには加担する気はない。
確かに「?」となるような調査結果もあるが、万が一それが何かの陰謀であったとして、おそらく未来永劫その真実が明かされることなどないだろうし、もしあの事故が人為的なものだとしたらなどと想像するだけで寒気がする。

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僕は当時大学生であった。
事故の一報を聞いたのは、バイト先のテレビだったと思う。
最初は誰も気に留めなかった。だが歌番組の途中で番組を中断してまで何度も入る速報に、やがてみんなが耳を留めはじめた。

「おい、何か飛行機が行方不明だってよ」「故障してどっかに不時着とかしてんじゃねぇの」「まさか何処かの戦闘機に撃墜されたとか」
その事故の数年前に大韓航空機がソ連(当時)の戦闘機に撃墜された事件が脳裏を過った。だが今回は国内線である。領空を侵犯するようなルートではないはずだ。
さまざまな憶測を口々に言い合ううちに、テレビは報道特別番組へと変わっていった。
これは大変な事故が起きたのだ。その時初めてそう思った。

柳原

「名区小景」に柳原の霞という題で数多くの歌が載っている。

朝日さす御城うへより立ちそめて霞になびく柳原かな 壽寛

柳原かすむ春日に見わたせば花よりさきの錦なりけり 正陰

の2首は柳原の情景をよくとらえた歌だ。

柳原は三の丸の土居下にある里だ。
朝日に輝く名古屋城。夕日の中に沈む名古屋城。城とともにあり、城とともに暮す里であった。
春ともなれば、桜の花より先に柳が青々と芽吹く町であった。

「金鱗九十九之塵」は柳原について、次のように記している。

この地は太古は入海(陸地に入り込んだ海)であった。また太古は大河の川筋(川の流れに沿った一帯の地)で水源は三州猿投山である。今の御深井丸の地は、その川の深いところであった。

両岸に柳が多く生茂っていて、このあたりは広い野原であった。柳が多く茂っている原なので柳原と呼んだ。
今、この辺をすべて柳原と呼んでいるが、地名の由来の柳の木を見る事ができない。
この地に植えられていた柳は、柳籠裏を作る柳の木であるという。今でも柳原の旧跡であろうか、畑一枚ほどの土地に柳が植えてある地がある。

柳原の里を南北に抜ける道が柳原街道である。築城以前は馬が足をとられたら出られないという沼沢地帯であったが、しだいに埋められて田んぼになった。
この柳原街道の中央に小川にかかる石橋があった。小川は清水地方から流れてきて、御用水の堤に突き当たって北進した。御用水は南進していく。
南に流れる川筋、北に流れる川筋と二つの川が平行して流れていた。これは御用水に下水や田の落し水が入らない様にするためであった。

夏草が一面に生茂った御堀が眼下に広がっている。
瀬戸電の東大手駅の横にある駐車場に立って御堀を見てる。おそらくこの御堀の下には何十年もの間、誰一人として足を踏み入れた事はないだろう。

かつては、のんびりと瀬戸電(現名鉄瀬戸線)が走っていた。瀬戸電が栄に乗り入れられるとともに、東大手駅が地下に作られた。御堀の中の鉄路は取り払われて、今は夏草の生茂るままになっている。

瀬戸電が走っていた三の丸の外堀の上には、江戸時代には枳穀が植えられていた。
枳穀とは白い花の咲く「からたち」のことだ。清楚な純白の花を咲かせる「からたち」には鋭い刺がある。盗人を防ぐ防ぐ為に「からたち」を植えて垣根とした家もある。

柳原の商店街に下る坂道の東側には、成瀬家の中屋敷と呼ばれた控地(万一の時に使用する為、おらかじめ備えておく土地)があった。中屋敷の垣根にも「からたち」が植えられていた。
坂道は東側にも西側からも「からたち」にはさまれている。からたちの中の坂道は枳殻坂と呼ばれていた。清楚な甘い香りが漂う花の中の坂道が枳穀坂だ。

そんなロマンチックなイメージとは、かけ離れた使命を江戸時代の枳穀坂に帯びた。瀬戸電東大手駅とは、名古屋城の東大手門をさす。東大手門は、東門とも呼ばれ、三の丸から東方に出る門であった。

東大手門から坂道を下った地に、かつては瀬戸電の土居下駅があった。
土居下駅の地には、江戸時代から明治の中ごろまで馬冷所があった。馬冷所とは、冷たい泉のわき出ている池に馬を入れて休ませる所だ。
馬冷所の近くには、東矢来木戸があった。この木戸は、いつも固く閉ざされていた。万一の時に藩主が城をぬけ出し、木曽路に落ち延びてゆくための非常口の木戸であるからだ。
非常口を守っていたのが御土居下屋敷の同心たちだ。

枳殻坂は、東大手門から土居下にくだる坂だ。坂道の両側に植えられている枳殻は、何か尾張藩に重大な事件が起きた時には、柳原街道を防ぐ バリケードになった。枳殻で坂道をふさげば、道をあがる事も、さがる事もできない。枳殻を坂道の両側に植えて防備柵としたのは、藩祖義直の時であったとい う。