「名区小景」に柳原の霞という題で数多くの歌が載っている。
朝日さす御城うへより立ちそめて霞になびく柳原かな 壽寛
柳原かすむ春日に見わたせば花よりさきの錦なりけり 正陰
の2首は柳原の情景をよくとらえた歌だ。
柳原は三の丸の土居下にある里だ。
朝日に輝く名古屋城。夕日の中に沈む名古屋城。城とともにあり、城とともに暮す里であった。
春ともなれば、桜の花より先に柳が青々と芽吹く町であった。
「金鱗九十九之塵」は柳原について、次のように記している。
この地は太古は入海(陸地に入り込んだ海)であった。また太古は大河の川筋(川の流れに沿った一帯の地)で水源は三州猿投山である。今の御深井丸の地は、その川の深いところであった。
両岸に柳が多く生茂っていて、このあたりは広い野原であった。柳が多く茂っている原なので柳原と呼んだ。
今、この辺をすべて柳原と呼んでいるが、地名の由来の柳の木を見る事ができない。
この地に植えられていた柳は、柳籠裏を作る柳の木であるという。今でも柳原の旧跡であろうか、畑一枚ほどの土地に柳が植えてある地がある。
柳原の里を南北に抜ける道が柳原街道である。築城以前は馬が足をとられたら出られないという沼沢地帯であったが、しだいに埋められて田んぼになった。
この柳原街道の中央に小川にかかる石橋があった。小川は清水地方から流れてきて、御用水の堤に突き当たって北進した。御用水は南進していく。
南に流れる川筋、北に流れる川筋と二つの川が平行して流れていた。これは御用水に下水や田の落し水が入らない様にするためであった。
夏草が一面に生茂った御堀が眼下に広がっている。
瀬戸電の東大手駅の横にある駐車場に立って御堀を見てる。おそらくこの御堀の下には何十年もの間、誰一人として足を踏み入れた事はないだろう。
かつては、のんびりと瀬戸電(現名鉄瀬戸線)が走っていた。瀬戸電が栄に乗り入れられるとともに、東大手駅が地下に作られた。御堀の中の鉄路は取り払われて、今は夏草の生茂るままになっている。
瀬戸電が走っていた三の丸の外堀の上には、江戸時代には枳穀が植えられていた。
枳穀とは白い花の咲く「からたち」のことだ。清楚な純白の花を咲かせる「からたち」には鋭い刺がある。盗人を防ぐ防ぐ為に「からたち」を植えて垣根とした家もある。
柳原の商店街に下る坂道の東側には、成瀬家の中屋敷と呼ばれた控地(万一の時に使用する為、おらかじめ備えておく土地)があった。中屋敷の垣根にも「からたち」が植えられていた。
坂道は東側にも西側からも「からたち」にはさまれている。からたちの中の坂道は枳殻坂と呼ばれていた。清楚な甘い香りが漂う花の中の坂道が枳穀坂だ。
そんなロマンチックなイメージとは、かけ離れた使命を江戸時代の枳穀坂に帯びた。瀬戸電東大手駅とは、名古屋城の東大手門をさす。東大手門は、東門とも呼ばれ、三の丸から東方に出る門であった。
東大手門から坂道を下った地に、かつては瀬戸電の土居下駅があった。
土居下駅の地には、江戸時代から明治の中ごろまで馬冷所があった。馬冷所とは、冷たい泉のわき出ている池に馬を入れて休ませる所だ。
馬冷所の近くには、東矢来木戸があった。この木戸は、いつも固く閉ざされていた。万一の時に藩主が城をぬけ出し、木曽路に落ち延びてゆくための非常口の木戸であるからだ。
非常口を守っていたのが御土居下屋敷の同心たちだ。
枳殻坂は、東大手門から土居下にくだる坂だ。坂道の両側に植えられている枳殻は、何か尾張藩に重大な事件が起きた時には、柳原街道を防ぐ バリケードになった。枳殻で坂道をふさげば、道をあがる事も、さがる事もできない。枳殻を坂道の両側に植えて防備柵としたのは、藩祖義直の時であったとい う。