錯覚

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「栄」と言う所は名古屋市の粗中心にある。名古屋のダウンタウン (ここでは繁華街と言う意味で使う ) は、名古屋駅から栄に至る一帯を指すが、間に伏見と言うオフィス街を挟むので、街並みは分断される。
古くは、特に江戸時代は今の様に東西の通りがメインストリートでは無く、南北に城下を貫き、南は熱田、北は名古屋城に至る本町通りが最も賑やかな通りであったと聞く。
明治期に官公庁が栄辺りに作られてから、行政の中心に、伴い本町から商店が移転して来た事で、繁華街の原型が構築され始めた。

以前にも書いた事があるが、僕は小中と越境入学をしていた。
僕が通っていた小中は、その栄辺りを学区に擁する場所にあったのだが、商業地には住民が少ない事もあって、児童数が少なかった事から、本来違法である越境入学も黙認為れていた時代だった。
周りの学区では一学年 10 クラスなどと言うのも珍しく無かったのだ。

学区に栄があると言う事は、当然遊び場も栄になる。
小学生の時分と言えば、もう三十年以上昔の話になるから、ちょっとした「栄今昔」を見聞した事になる訳だ。

今からは想像が付きにくいが、テレビ塔の真西側、久屋大通り沿いにも同級生の家が何軒があった。
僕は日曜日になると、自転車を十分程漕いで、その辺りで遊んでいた。
今の様に高層のビルも無く ( 当時一番高いビルは「タキヒョー」だったと記憶している )、見晴らしも良かった。
セントラルパークは中学の頃に整備為れたので、それまでは北側のリバーパークが遊び場だった。

今では、その辺りを歩いても、当時を偲ぶ物に出会う事は少ない。
中心地であるが故に、時代の変遷にも敏感であるのは仕方の無い事かも知れない。

お国の空気では無いが、そんな場所でも、歩いて居ると、何処かしら懐かしい気分に成るのは事実である。
住む人も建物も変わっているが、その空気は其の侭と言う事か。
その角を曲がると、自転車を乱雑に止めて遊んでいる友達がいる様な錯覚すら覚えて仕舞うのだ。

ゾナー

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使っている人には怒られそうな話だが、正直、期待はしていなかった。
カメラ自体も六十年は経って居るし、レンズも多少製造年に違いはあっても大した差は無いのだ。
コーティングはされて居るらしいが、この年代の其れは柔らかく、ちょっとした事で傷が付く事もあるし、このレンズに関しては事前に剥がれが有る事も知らされて居た。
まあ殆どモノクロだから問題無かろう、と。

流石に開放ではシャープとは言えないが、一つ二つ絞ればキリリとした凛々しい描写になる。オールドレンズのお手本の様だ。

カメラはスローが許容範囲で切れて居るか、このシャッターの最速である 1/1250 が開いているか、が確認出来て居たので問題は無い。
レンズも無限遠が距離計で出れば合格。
その上で曇りや傷をどの程度許容出来るか、がオールドレンズと付き合う勘所になる。
斯くして、このゾナーは、少なくとも僕にとっては素晴らしいレンズ、と言う評価になった。

ハイライトとシャドーの分離がじんわりと滲む感じが好い。
シャープだが柔らかい。
こういうのはフィルムの独壇場だ。
もっと低感度のフィルムでコントラストを下げるのも試してみたい。

久しぶりに喫驚為せられた。

コンタックス

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“Contax” を買った。
“CONTAX” では無く、”Contax” である。
頭文字だけが大文字なのと、全てが大文字では何が違うか、を説明すると、少々長い話をしなくては成ら無い。 

1926 年と言うから、大正 15 年、昭和元年に、ドイツでカール・ツァイス財団によって、イカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサ・ネッテルなどのカメラメーカーがツァイス・イコンとして合併契約に調印する。
その後幾つかの会社を傘下に治め、1929 年に「イコンタ」「ミロフレックス」を発売する。
そして 1932 年に「コンタックス」を発表。

コンタックスはアルミ合金ダイカストをボディに採用し、精度の高いピント合わせを実現する長い基線長を持つ連動距離計を備え、金属性のフォーカルプレーン・シャッターを採用していた。
また当時で世界最速であった f/1.5 のゾナーを標準レンズとしていて、ライツ社がズマリットで同じ開放値を達成するまでに、実に 10 年を要している。

このコンタックスは露出計搭載などのモデルチェンジを繰り返しながら、最終型の 3a を 1961 年まで製造される。
この間、不幸な歴史によってツァイス・イコンは東西に分断される。
商標を争っての訴訟を経て、西側で販売される東側のツァイス・イコン製品は「ペンタコン」「プラクチカ」と成る事で終結する。
1961 年にコンタックス製造を終えた後、同社のフラッグシップは「コンタレックス」となるが、1971 年にカメラ事業を打ち切るが、1974 年にヤシカとライセンス契約を結び「コンタックス」の名前を冠した「コンタックス RTS 」を発表する。
休眠状態であった「コンタックス」を復活させるに当たり、嘗ての「コンタックス」が “Contax” であったのに対し、RTS 以降の「コンタックス」は “CONTAX” とする事になった。

その後ヤシカ・コンタックスは京セラと合併、2007 年にカメラ事業から撤退し現在に至っている。

僕が今回入手したのは “Contax 3a” で、シリーズ最終型になる。
これは個人的な意見だが、コンタックスのデザインはライカ ( バルナック ) よりも好い、と思っている。
直線基調で無骨であるが、見た目よりも保持し易く、案外と小さいので手に余る事も無い。
露出計が不動の物が多いが、付いている物はちゃんと機能していた方が良いに決まっている。
この個体はちゃんと動いたので、ここも入手するポイントになった。
ちなみにこの写真は内蔵された露出計に合わせたのだけど、まぁ大体当たっている ( 笑 )

実は随分昔に「キエフ 4a 」と言うソビエトカメラを持っていた事がある。
これが実に良く写るカメラであったのだけど、巻き上げノブの重さには辟易してしまった。
一本撮り終える頃には右手の親指が真っ赤になる。
ところが、さすがにコンタックスではそんな事態には陥らない。
あらゆる可動部がスムーズでギクシャクした所が無い。
もっとも一番感動したのは別の所なのだけど、長くなったので別の機会に。